長いです。& 暗いです。
皆様!
前回は私のトホホな話を聞いて下さってありがとうございます。
それどころか、たくさん温かい言葉をかけて下さったこと、本当に本当に感謝しています。
お会いしたこともないこんな私に、わざわざ励ましのメッセージを送ってくださるその気持ちが泣きたいほど嬉しかったです。本当にありがとうございました。
何もお返しはできませんが、前を向いて頑張ります!
・・・・・・・と、ここで〆られれば美しく終われたのですが・・・・・・
皆様にもうひとつご報告しなければならないことが、本日ありました。
えー、コホン。
まったまた、落ちちゃいましたーーーー!
ごごごごごめんなさいっ!
いい加減にしろ!という声が聞こえるような気もしますが、とりあえず詳細を。
本日の不採用も、地元のケーキ店でございます。
先日落ちたところより前に、電話で問い合わせだけはしてあったのですが、
製菓学校のスクーリングの時期だったために、すぐに面接には行けずにいたのです。
4月に入って落ち着いたところで履歴書を郵送してあったのですが・・・
タッチの差で募集を締め切ったところだったそうです。
でもね、今回はそんなには落ち込んでいません。
電話を下さったオーナーの女性が、とても真摯な態度で不採用の旨を説明して下さったからです。
今回は、私の年齢だの、子供の年齢だの、夫のことには一言も触れられず、率直に説明してくれました。
私の芸歴経歴を見て、「採用したかった、とても残念だ」とまで言って下さいました。(リップサービスだと思うけど)
前回の店のオーナーも、年配の女性でしたが、私の息子たちの年齢を聞くなり
「アラアラ・・・ずいぶん離れちゃったのねぇ」と笑ったり、また
「アナタが働くこと、ご主人さまは許して下さってるの?」と言ったり
とても不快な思いをしたのですが、今回はそんな事もなく(それが当たり前だと思うけど)、微かに清々しい気持ちで電話を切りました。
頑張る40代をお見せできるのがいつになるのか分からないけれど、私の不採用日記はまだまだ続きそうです。
実は私、別に「ケーキ店で働く」ことに固執しているわけではないんです。
好きなベイキングが仕事にできたら、それはもっちろん嬉しいことですが、
厳しく、そして重労働でもあるこの世界。実務経験ゼロのおばさんが「お菓子作りが好きなので~」と現れたところで、使う側は歓迎しないのもよくわかるのです。
お菓子関係を主にパートを探していたことは事実ですが、
そのような現実と自分のスキルを考えると、そうそう業種にこだわっていられる身分ではなく、
勤務時間や勤務地が希望に合えば、どんな職種でも贅沢言えないとも思っています。
先日は、「お掃除代行」の仕事の面接にも行ったしね!(勤務時間が折り合わず流れましたが)
じゃあどうして、製菓学校だの講習会だの行ってるの?と問われたら
それは私の中の「夢を持っていたい部分」がそうさせるのかも。
趣味を深めていたら、いつかひょんなご縁で「何か」できる日がくるかも・・・なんてね。
非常~~~に生ぬるい考えが、そうさせているのだと思います。
そもそも何故、専業主婦歴20年の私が、今頃になって仕事仕事と言い出したのかというと、
経済的なことが一番ですがその次に、先日も書いた私の「迷子感」があると思います。
その迷子感はどこから来て、そしてその正体は何なのか?
それは、続きに書かせて下さい。
負のオーラをまき散らしてしまうかもしれないので(いや、絶対)お許し頂ける方だけクリックをどうぞ。


前回は私のトホホな話を聞いて下さってありがとうございます。
それどころか、たくさん温かい言葉をかけて下さったこと、本当に本当に感謝しています。
お会いしたこともないこんな私に、わざわざ励ましのメッセージを送ってくださるその気持ちが泣きたいほど嬉しかったです。本当にありがとうございました。
何もお返しはできませんが、前を向いて頑張ります!
・・・・・・・と、ここで〆られれば美しく終われたのですが・・・・・・
皆様にもうひとつご報告しなければならないことが、本日ありました。
えー、コホン。
まったまた、落ちちゃいましたーーーー!
ごごごごごめんなさいっ!
いい加減にしろ!という声が聞こえるような気もしますが、とりあえず詳細を。
本日の不採用も、地元のケーキ店でございます。
先日落ちたところより前に、電話で問い合わせだけはしてあったのですが、
製菓学校のスクーリングの時期だったために、すぐに面接には行けずにいたのです。
4月に入って落ち着いたところで履歴書を郵送してあったのですが・・・
タッチの差で募集を締め切ったところだったそうです。
でもね、今回はそんなには落ち込んでいません。
電話を下さったオーナーの女性が、とても真摯な態度で不採用の旨を説明して下さったからです。
今回は、私の年齢だの、子供の年齢だの、夫のことには一言も触れられず、率直に説明してくれました。
私の
前回の店のオーナーも、年配の女性でしたが、私の息子たちの年齢を聞くなり
「アラアラ・・・ずいぶん離れちゃったのねぇ」と笑ったり、また
「アナタが働くこと、ご主人さまは許して下さってるの?」と言ったり
とても不快な思いをしたのですが、今回はそんな事もなく(それが当たり前だと思うけど)、微かに清々しい気持ちで電話を切りました。
頑張る40代をお見せできるのがいつになるのか分からないけれど、私の不採用日記はまだまだ続きそうです。
実は私、別に「ケーキ店で働く」ことに固執しているわけではないんです。
好きなベイキングが仕事にできたら、それはもっちろん嬉しいことですが、
厳しく、そして重労働でもあるこの世界。実務経験ゼロのおばさんが「お菓子作りが好きなので~」と現れたところで、使う側は歓迎しないのもよくわかるのです。
お菓子関係を主にパートを探していたことは事実ですが、
そのような現実と自分のスキルを考えると、そうそう業種にこだわっていられる身分ではなく、
勤務時間や勤務地が希望に合えば、どんな職種でも贅沢言えないとも思っています。
先日は、「お掃除代行」の仕事の面接にも行ったしね!(勤務時間が折り合わず流れましたが)
じゃあどうして、製菓学校だの講習会だの行ってるの?と問われたら
それは私の中の「夢を持っていたい部分」がそうさせるのかも。
趣味を深めていたら、いつかひょんなご縁で「何か」できる日がくるかも・・・なんてね。
非常~~~に生ぬるい考えが、そうさせているのだと思います。
そもそも何故、専業主婦歴20年の私が、今頃になって仕事仕事と言い出したのかというと、
経済的なことが一番ですがその次に、先日も書いた私の「迷子感」があると思います。
その迷子感はどこから来て、そしてその正体は何なのか?
それは、続きに書かせて下さい。
負のオーラをまき散らしてしまうかもしれないので(いや、絶対)お許し頂ける方だけクリックをどうぞ。


私は今年で結婚20年目を迎えました。
3年前までの17年間は、実にどっぷり夫の実家と密接につきあってきました。
車で20分程度の距離に住んでいるということもあり、舅・姑とも年中(週に数回会うことも珍しくなかった)会っていました。
盆・暮れともなれば集合する義兄弟一家と、ワイワイ過ごしたものです。
それが、3年前の冬に突然できなくなってしまったのです。
大事件があったわけでもなく、本当に突然。
姑かもしれないと思っただけで、一切の電話に出られなくなり、顔をあげて町を歩くことができなくなり、
終いには自分の友人とも会うことはおろか、電話やメールさえ受け付けられなくなってしまいました。
普段の食事を作ることも困難になり、ただただ毎日寝て過ごしました。
頭に浮かぶのは、「どうすれば消えられるか」だけ。
当時はまだクックパッドの会員でしたが、たまーに短いコメントをするのもやっとの思いだった気がします。
今思うと、あの頃一体子どもたちはどうしていたんだろう?よく覚えていないのです。
あ、そうだ!
当時次男はまだ幼稚園だったのですが、「中退」させようかと本気で思ったのは覚えています。
幼稚園中退って・・・・(笑)!!
そんな状態が数か月続き、数件の医者やカウンセリングも受け、投薬も始め、
ようやく元気になってきたのが、このブログを始めて少し経ったころです。
本当に少しずつだったけれど、確実に元気は戻ってきました。
そしてこの春晴れて、3年飲み続けた薬も減らせるようになったのです。ヤッター♪
実に怖い経験でした。
肉体には問題がなくても、あんなにも辛く、苦しく、恐ろしい状態になるとは。
ああなった原因が何なのか。
断言することはできないけれど、私の中の「葛藤」が処理しきれなくなりエラーが出たからなのかな・・。
姑が、
「お客が来るから、何種類ものケーキを作って」と言い、夜中までかかってあれこれ用意したが
当日1本の電話もなく、翌日になって「あれ、いらなくなったわ」と言ったからか?
夫の昔の彼女の話を何度も聞かせ、私が不快な顔をすると「ワーイ、怒った怒った!!」と喜んだからか?
ゴキブリ入りの味噌汁を飲ませ、訴えると「そんなの小さい小さい!」と言ったからか?
出産後1時間の私の病室に、「こんなのはお産のウチに入らない!」と言いながら入ってきたからか?
義父にバレンタインのチョコレートをプレゼントしたら、「あーら、エビで鯛釣ってるの?」と言ったからか?
次男が生まれる前、私の友人たち(全員二人の子持ち)に向かって、「ウチは一人しか産まないのよ!!」と言ったからか?
夫の兄弟たちと談笑していたら、後から呼び出されて「チヤホヤされるのも今のうちだけよ!」と言ったからか?
いやいや、こんなものは生ぬるい。
この程度のことで神経がおかしくなるほど、私はデリケートな人間ではないはず・・・。
やっぱりアレかな。
父が亡くなって、ガックリ気落ちしていた母(最期までラブラブな老夫婦だった)を私が心配していた時に姑が、
「大丈夫大丈夫!
お母さんは(看病から)解放されて
ホッとしているわよ。
表情が明るくなったもの!」
と言ったのがトドメだったかな・・・・。
父は、自分が手術室に運ばれるストレッチャーに乗ってまで母の体調を心配し、「もう一枚何かはおっていた方がいい」と言うような人だった。
亡くなる1か月前、関東地方に台風が接近していたある日。
父はその、ガリガリにやせ細った腕で、家の雨戸に板を打ち付けていた。私はもう、直視できなかった。
毎日、病院から私と母が帰る時、病棟の廊下の端で、父は私たちが見えなくなるまでずっと静かに手を振っていた。その表情は、心の底から「さよなら」を告げているようで、私はとても父の目を見ることができなかった。
父の死後、母は父の骨をひとかけら持ち帰り、小さな壺に入れて、父の写真の脇に置いた。
闘病中、母がどれだけ父を案じ、また父が、残される母と私(一人っ子です)の事をどれだけ心配し、そしてどれだけ、いずれ来る「別れ」を恐れていたか。
3人しかいない家族が、抱きしめ合うかのように過ごした辛い辛い2年間を知ってか知らずか発せられたあの言葉は、今でも私の心から抜けないのです。
そして、
このような数々の姑の言動を「問題ない」と言い続けた夫に、「信頼」というものはもはやないのです。
・・・・・と脱線してしまいましたが、
このような日々の果てに、私の脳みそがある日、ピーーーーーーーッとエラーを起こし
今まで問題なくできていた様々なことができなくなってしまったのではないかと、推測しています。
そして、エラーが起きたことで「人生立て直そう計画」のようなものが芽生え、今に至るわけです。
それはつまり、自分がストーリーを書いていく人生・・・とでも言いましょうか。
「こんなものよね」と流されてきた半生を反省し(笑)、せめて残りの時間は自分が選び、決めたことを重ねていきたいな、と思うのです。
とは言っても、何しろ無学・無経験な私。
偉そうな目標を掲げたところで、社会が受け入れはしません。
だから、本当に「気持だけ」の、小さーーーーーな変化に過ぎないのですが、それでも一歩は一歩。
後退するよりはいいよね、くらいの気持ちで歩き出そう!と思っているのです。
私のことを「幸せなお母さん」と思って下さっていた方には、お詫びします。
「素敵なご家庭で羨ましいです。」とコメントをいただくたびに、チクンとしていました。
でも・・・
私は私で、変わらないつもりです。
もしよろしければ、これからもお付き合いくださいね。
さて!今日は新聞に求人情報が入る日です。見なくちゃ!
次回からはまた、ケーキやハビたちの話題でふざけさせてください。終わり!
こんな長文にお付き合い下さって、本当にありがとうございました。
矛盾厨房・あつ
よろしければクリックお願いいたしますm(_ _)m!


3年前までの17年間は、実にどっぷり夫の実家と密接につきあってきました。
車で20分程度の距離に住んでいるということもあり、舅・姑とも年中(週に数回会うことも珍しくなかった)会っていました。
盆・暮れともなれば集合する義兄弟一家と、ワイワイ過ごしたものです。
それが、3年前の冬に突然できなくなってしまったのです。
大事件があったわけでもなく、本当に突然。
姑かもしれないと思っただけで、一切の電話に出られなくなり、顔をあげて町を歩くことができなくなり、
終いには自分の友人とも会うことはおろか、電話やメールさえ受け付けられなくなってしまいました。
普段の食事を作ることも困難になり、ただただ毎日寝て過ごしました。
頭に浮かぶのは、「どうすれば消えられるか」だけ。
当時はまだクックパッドの会員でしたが、たまーに短いコメントをするのもやっとの思いだった気がします。
今思うと、あの頃一体子どもたちはどうしていたんだろう?よく覚えていないのです。
あ、そうだ!
当時次男はまだ幼稚園だったのですが、「中退」させようかと本気で思ったのは覚えています。
幼稚園中退って・・・・(笑)!!
そんな状態が数か月続き、数件の医者やカウンセリングも受け、投薬も始め、
ようやく元気になってきたのが、このブログを始めて少し経ったころです。
本当に少しずつだったけれど、確実に元気は戻ってきました。
そしてこの春晴れて、3年飲み続けた薬も減らせるようになったのです。ヤッター♪
実に怖い経験でした。
肉体には問題がなくても、あんなにも辛く、苦しく、恐ろしい状態になるとは。
ああなった原因が何なのか。
断言することはできないけれど、私の中の「葛藤」が処理しきれなくなりエラーが出たからなのかな・・。
姑が、
「お客が来るから、何種類ものケーキを作って」と言い、夜中までかかってあれこれ用意したが
当日1本の電話もなく、翌日になって「あれ、いらなくなったわ」と言ったからか?
夫の昔の彼女の話を何度も聞かせ、私が不快な顔をすると「ワーイ、怒った怒った!!」と喜んだからか?
ゴキブリ入りの味噌汁を飲ませ、訴えると「そんなの小さい小さい!」と言ったからか?
出産後1時間の私の病室に、「こんなのはお産のウチに入らない!」と言いながら入ってきたからか?
義父にバレンタインのチョコレートをプレゼントしたら、「あーら、エビで鯛釣ってるの?」と言ったからか?
次男が生まれる前、私の友人たち(全員二人の子持ち)に向かって、「ウチは一人しか産まないのよ!!」と言ったからか?
夫の兄弟たちと談笑していたら、後から呼び出されて「チヤホヤされるのも今のうちだけよ!」と言ったからか?
いやいや、こんなものは生ぬるい。
この程度のことで神経がおかしくなるほど、私はデリケートな人間ではないはず・・・。
やっぱりアレかな。
父が亡くなって、ガックリ気落ちしていた母(最期までラブラブな老夫婦だった)を私が心配していた時に姑が、
「大丈夫大丈夫!
お母さんは(看病から)解放されて
ホッとしているわよ。
表情が明るくなったもの!」
と言ったのがトドメだったかな・・・・。
父は、自分が手術室に運ばれるストレッチャーに乗ってまで母の体調を心配し、「もう一枚何かはおっていた方がいい」と言うような人だった。
亡くなる1か月前、関東地方に台風が接近していたある日。
父はその、ガリガリにやせ細った腕で、家の雨戸に板を打ち付けていた。私はもう、直視できなかった。
毎日、病院から私と母が帰る時、病棟の廊下の端で、父は私たちが見えなくなるまでずっと静かに手を振っていた。その表情は、心の底から「さよなら」を告げているようで、私はとても父の目を見ることができなかった。
父の死後、母は父の骨をひとかけら持ち帰り、小さな壺に入れて、父の写真の脇に置いた。
闘病中、母がどれだけ父を案じ、また父が、残される母と私(一人っ子です)の事をどれだけ心配し、そしてどれだけ、いずれ来る「別れ」を恐れていたか。
3人しかいない家族が、抱きしめ合うかのように過ごした辛い辛い2年間を知ってか知らずか発せられたあの言葉は、今でも私の心から抜けないのです。
そして、
このような数々の姑の言動を「問題ない」と言い続けた夫に、「信頼」というものはもはやないのです。
・・・・・と脱線してしまいましたが、
このような日々の果てに、私の脳みそがある日、ピーーーーーーーッとエラーを起こし
今まで問題なくできていた様々なことができなくなってしまったのではないかと、推測しています。
そして、エラーが起きたことで「人生立て直そう計画」のようなものが芽生え、今に至るわけです。
それはつまり、自分がストーリーを書いていく人生・・・とでも言いましょうか。
「こんなものよね」と流されてきた半生を反省し(笑)、せめて残りの時間は自分が選び、決めたことを重ねていきたいな、と思うのです。
とは言っても、何しろ無学・無経験な私。
偉そうな目標を掲げたところで、社会が受け入れはしません。
だから、本当に「気持だけ」の、小さーーーーーな変化に過ぎないのですが、それでも一歩は一歩。
後退するよりはいいよね、くらいの気持ちで歩き出そう!と思っているのです。
私のことを「幸せなお母さん」と思って下さっていた方には、お詫びします。
「素敵なご家庭で羨ましいです。」とコメントをいただくたびに、チクンとしていました。
でも・・・
私は私で、変わらないつもりです。
もしよろしければ、これからもお付き合いくださいね。
さて!今日は新聞に求人情報が入る日です。見なくちゃ!
次回からはまた、ケーキやハビたちの話題でふざけさせてください。終わり!
こんな長文にお付き合い下さって、本当にありがとうございました。
矛盾厨房・あつ
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