桜の中で

みなさま、お久しぶりです。
お久しぶりどころではないですね
1年近く更新がストップしてしまいました。
こんなに放置してしまったのは、2006年のブログ開始以来初めてです。
時間はたっぷりあったはずなのに更新できなかった理由は色々ありまして…
その理由たちの、どれから書いていこうか迷うところですが
とりあえず今日は、私の友人Y子について綴ろうと思います。
このページを見てくださる方がまだいらっしゃるかどうかわかりませんが
自分の人生を書き留める場所でもあるので、書かせてください。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
Y子との出会いは40年以上も昔。
高校入学時に出席番号で前後に並んだ時から付き合いが始まった。
性格は違うのになぜか波長が合い急速に親しくなった私たちは、
今で言うヤンチャな事やくだらない事ばかりして高校時代を過ごした。
大人になってからはますます距離が縮まり、付き合いが途切れることなく
互いの愛だの恋だの結婚だの離婚だの仕事だの病気だの…チャラチャラしたこともシリアスなことも全て共有してきた。
私たちは、幼い時の経験や思い出にも驚くほど共通点が多く、
まるで幼少期からの友達だったような錯覚を起こすほどで、なぜか互いの心の中がよくわかった。
必ずしも同意見になるわけではないけれど、「相手がどう思っているか」はわかるのだ。
そして怖いほどに色々な事がシンクロした。
Y子は、ふたりがあまりにもシンクロすることが多いので、前世鑑定(笑)までしてもらったほど。
とにかく、互いの癖も好みも弱点も欠点も細かい所まで知り尽くしていた。
どんな時でも味方になれるし、なってくれると信じることができた。
例えそれが一般常識とは違っていたとしても。
私もY子も少々常識はずれなところがあり、大多数がヨシとする意見に疑問を持つことが多かった。
黙っていればいいものをそれをすぐ口に出してしまうので、周囲から誤解されることが多く
摩擦の多い生き方しかできなかったが、そんな面も共通していた。
親には話せないような事も、世間的にNGな内容も
互いになら全て本音で話せて、相手が言いたい事の真意を理解し合える唯一の存在だった。
だからと言って何でも同意し合うというわけではなく、互いのダメ出しや批判をすることもあったが、
それでも関係がこじれない唯一の存在でもあった。
Y子のために菓子を焼いても、美味しいと思わなければお世辞も遠慮もなく「ゴメン、無理」と残されてしまうことなど常。
どちらかが愚痴をこぼしても無条件で擁護するわけではなく「それはあなたに問題があるんじゃないの?」と指摘したし、されもした。
「馬鹿じゃないの!?散々おんなじ失敗してること忘れたの?ホラ、あの時だって…」
「これ、本気で気に入って買ったの?すごいセンスだね。」
「アンタって昔っからそうだよね、いい加減学べば?」
「アナタこういうの好きよねぇ~、あたしは嫌いだけど。」
そんな風にズケズケと本音が言い合えるのも、Y子しかいなかった。
高校1年から今日まで実に43年間、本当に何をするにもどんな時も一緒だったから
ほとんどの思い出を共有していて、互いでないと通じない話ばかり。
しょっちゅう会っているというのになぜか話が尽きることがなく、いつも朝まで語り合った。
Y子と私の家はそれぞれ海沿いの街にあり、Y子の部屋で一晩中喋ったあと
朝焼けの海岸線を車を走らせて家路についたことは数えきれない。
どんな時も支え合ってきた、まさに “もう1人の自分”という存在だった。
そんな私たちもいつのまにか年を取り、なんとあと2年で還暦!
2人で赤いパーカーか何かを着て盛大にお祝いしよう。
そしてお互いおひとり様同士、老後は支え合って暮らそうか。
本心がわかり過ぎてケンカになる事もあるので、一緒には住まずにご近所くらいがちょうどいいね。
だんだん老いていって、互いのポンコツ具合を嘆きながらも最後まで悪ふざけを言い合って
共に弱って、そしていつかどちらかが「お先に」と手を振って、
残った方も「後からすぐ行くよ」と見送るのだね…などと最近はよく話していた。
そんな彼女が昨年夏、突然余命宣告をされた。
医師から、手術をすることもできない状態で、お正月は迎えられないと言われたのである。
あまりにも突然のあまりにも信じがたい内容に私は混乱し、毎日泣いた。
メソメソしている場合ではない。少しでもY子の役に立ちたいと思うのに
自分にできることの少なさに愕然とした。そしてまた涙が出た。
分身のような存在を失う恐怖に打ちのめされ、頭がおかしくなりそうだった。
身勝手を承知で言えば、少しでも可能性があることは全て試してほしい。諦めてしまわないでほしい。
「治療はしないことにした」と聞かされるのが怖くてたまらなかった。
でも「立ち向かえ」と言うことがどれほど無責任で残酷なことか、理解していた。
だから、Y子がどういう道を選んだとしても、その選択を尊重しよう。
そして全力でその選択の一助となれるよう努力しようと決めた。
Y子は、一切の治療をしない事にしたと言った。
「余命宣告はショックだけど“あなたは永遠に死ねません”と言われるよりよっぽどマシだ」と…。
そして「それより、残るアンタの事が心配だよ」と…。
その直後、Y子は私の息子たちに封筒を渡した。
お金と「これでお母さんを食事にでも連れていってあげて」と書かれた手紙が入っていたと、後で聞いた。
それからのY子は、いつも通り楽しい事や好きな事をする毎日を望んだ。
今まで以上に私と一緒に過ごすことを望んだ。
私はY子が望むままに会いたい時に会い、行きたいところに連れて行った。
旅行に2回行き、果物狩りや話題のスイーツ店や買い物や…。
会わない日は必ず電話で話をした。
日に何度もLINEのやりとりをした。
私が失業し十数年ぶりに時間を自由に使えたのは、このためだったのかもしれないと思った。

Y子は取り乱すことも悲嘆にくれることもなく、どこに行っても「来年もまたここに来よう」「これは今度の夏に着よう」と、
未来があると信じているふりをして楽し気にしていた。
私はその一方で、医大教授の友人に相談したりネットで情報をあさったり…一縷の望みをかけてY子の命を繋ぐ術を探した。
去年のクリスマスイブ、Y子の好きなものをたくさん並べて2人でクリスマスディナーをした。
味にうるさいY子と共に、何日も前から「苺は〇〇農園の」「ピザにのせるのは〇〇チーズ専門店の自家製モッツァレラ」
「パテは〇〇精肉で」「ケーキは絶対〇〇のモンブラン」とアレコレ決めて準備した。

Y子はこの頃体調も良く「美味しい美味しい」とほとんどの皿を平らげて、来年もまた必ずやろうと言った。
来年のクリスマスは、私ひとりで過ごさなくてはならないと分かっていたけれど
2人で来年のメニュー決めをして笑った。

その時、Y子が「そういえばアツはもうすぐ試験受けるんでしょ?」と聞いてきた。
私は昨年春、社会福祉士資格取得の養成講座に申し込んでいたのだが、
全ての時間をY子のために使うと決めて受験はしないことにしていた。
だから「今回は受験しないことにしたよ」と答えると
「もったいない!受けるだけ受けてみなさいよ」とY子。
この時の私には厄介な問題が複数ふりかかっていた。
息子1が急病で手術を控え、息子2がクリスマス直前に交通事故を起こし、
その相手が主張してきた真っ赤なウソを覆すための証拠集めや抗議、
書類選考を通った求人の面接、契約通りの工事をしない修繕業者との連日の交渉、
かねてから揉めていた相続問題も急展開して山場を迎え、施設にいる母のことでもひと騒動あり…
ここに受験まで組み込んだら、Y子との時間が削られてしまう。
しかしY子は「アツはアツの道を頑張らなきゃいけないんだよ」と言った。
私は泣きそうになりながら「わかった。じゃあ1ヶ月だけ待ってて。」と答えた。
そして2022年の年が明けてから2回会って食事やドライブをし、
そこから私は30日間のダメ元受験勉強を開始した。
試験日は2月6日。
終わったらすぐに打ち上げをして、Y子が行きたがっている温泉にもまた行こうと約束した。
ただでさえ脳の機能が著しく低下しているシニアが、普通なら今までの総仕上げをする時期に
勉強スタートするという無謀すぎる挑戦。
何度も「やっぱり到底無理だ!」と放り出しそうになった。
ほぼ理解できたと思った単元なのに、1週間後には全て忘れているどころか
その単元を勉強したこと自体忘却していて、半泣きになりながら再度ページを繰ったことも…。
その合間に諸々の面倒事を詰め込んで、まさに髪を振り乱した30日間だった。
その間、Y子とは会わずLINEメインで繋がっていた。
私からは
「体調、変わりない?」
「食べられてる?ほしいものない?」
「次の診察はいつ?」
「ちゃんとドクターに今の状態説明するんだよ」
「(試験が終わるまで)もう少しだから待っててね」
Y子からは
「こっちは気にしなくていいから勉強集中しなさい」
「試験終わったら私がアツに美味しいモノ食べさせるよ」
「試験前にコロナにかかったりしないように!」
そんなやりとりを続けていたが、1月の末頃から少しずつY子の文章から元気が失われていった。
文字数が減り、誤入力が増えた。
そしてある日「今はちょっと外には出かけられないかもなぁ」と書かれていて
私はY子が衰弱していっているのを確信した、
そして2月6日、私は試験を終えた。
他の様々な厄介事も順番に片付いてゆき、やっと再びY子と過ごす時間が戻ってきた。
しかしその時、彼女の体調はかなり悪くなってしまっていた。
ほとんど文字が打てなくなり、昼間もウトウトしている事が多くなり、打ち上げも温泉も行けなくなっていた。
完全に文字が打てなくなったのは試験5日後…
それからは電話でやりとりをした。
時間の感覚も狂ってしまい朝か夜かがわからないことも増えてきたので
一日中、Y子が話したいと思った時にはいつでも電話を受けられるようにしていた。
今までのような雑談やバカ話はもうできず、呼吸も苦しそうだったけれど
電話が繋がっている間だけは気分が紛れる様子だった。
Y子は電話を切る時には必ず「ありがとう、たすかったよ」と言っていた。
それからY子は週ごとに弱っていった。
Y子のお母様は気丈にも「自宅で看取る」とおっしゃり
訪問看護や往診等のサポートを受けながら自宅で看護をなさっていたので
私はお母様のサポートにまわった。
毎日電話で話す相手がY子からお母様に替わり、お母様の不安や悲しみを受け止め、
福祉サービスの助言や買い物など引き受けた。
定期診察に付き添った時は、Y子は私以外の人には体を預けず、貴重品も私にしか触らせず、
お母様が「アツちゃんの言う事しかきかないわね」と苦笑していた。
Y子はいつも私を待っていて、私は数日おきに見舞いに行った。
他の友人が見舞いに行くと「アツは?」と何度も訊いていたとお母様から聞かされた。
ほとんど食事ができなくなっても、私が持って行ったものは大喜びで食べてくれた。
元々、食材や味付けに対するこだわりがとても強く、世間では美味しいとされている物でも
全く受け付けないものがたくさんあるY子だったが、
「アツは絶対に私が好きな物を持って来てくれる」と言っていたと聞いた。
そして3月半ば、国家試験の合格発表があった。
奇跡的に合格していたが、Y子はもうほとんど起き上がれなくなっていて、私が試験を受けたこともわからなくなっていた。
それでもお母様がベッドのY子に「アツちゃん、試験合格したんですって!」と伝えると
弱々しい声で「そうか~よかった~」と言ったと聞いた。
Y子は「合格したら、アツの大好物のナポレオン・パイを一緒に食べよう」と言っていたがそれは叶わず
私はひとりパイを作ってひとりで食べた。

その翌週、いつものようにY子の好物を持って見舞いに行き、
何度も「Y子、アツだよ。今日も来たよ~」と話しかけ、Y子の手を握ってしばらく過ごし、
「また来るからね!」と挨拶をした日の夜、Y子は旅立ってしまった。
眠るような旅立ちだった。
そして3月の終わり、満開の桜の中でY子は荼毘にふされた。

Y子の旅立ちは、必ずしも悲劇ではないかもしれないと思っている。
若い時から彼女の死生観は一貫して「長生きはしたくない」というものだった。
独特の人生哲学を持っていて、現世への未練のようなものは人より少なかったと思う。
私と同じ徹底した医者嫌いで、病気が見つかった時「手術できる状態ではない」と言われて
「手術しなくて済んでホッとした」と本気で言っていた。
苦痛を伴うことが多い病にも関わらず、最後まで痛みを訴えることがなかった。
それはもちろん強い薬で痛みをコントロールしていたからだが、それが彼女にはとてもよく効いたのだ。
激しい発作や痛い処置や苦しい治療など、ほとんど経験せずに済んだ。
60才近いというのにお母様に甘えたところがあり、
病気になってからは、夜中に不安になるとお母様のベッドにもぐり抱いてもらっていたと言っていた。
お母様は80代半ば。普通ならY子が介護する側だろう。
でもY子のお母様はホスピタリティに溢れ、またその能力と知恵のある方で、きめ細かくY子をケアし続けた。
そんな風に最後まで信頼する人に甘えることができ、24時間見守られ、
大好きな自分の部屋で苦しむことなく逝けたというのは幸せなことだったのかもしれないと、少し思う。
だから、私が今抱えている悲しみは「私の問題」である。
自分が淋しいから、自分が悲しいからオイオイと泣いている。
Y子の立場になって考えたら、もっと穏やかに「解放」を共感すべきなのかもしれない。
でも
でも
「あんた」と呼び合える相手なんてひとりしかいない。
くだらない事でお腹抱えて馬鹿笑いができる相手なんてひとりしかいない。
人様には「非常識」と思われることを率直に口にできる相手なんてひとりしかいない。
何かを食べて「あ、これアツの嫌いな味だ」とわかってくれる人なんてひとりしかいない。
Y子でなければ通じない話が多すぎて、私にはもうこの世界に話し相手がいなくなってしまった。
これから支え合おうとした“老いの入口”で、ひとりぼっちになってしまった。
一体これからどうしたらいいのだろう。
桜が舞い散る美しい光景の中で、私は自分の半分を失ったような手に負えない喪失感の中にいる。

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工房作りへの道⑤まさかの続編

ご無沙汰し過ぎております

時間がたっぷりあるのだから、せっせと更新しようと張り切っていたのに
何と言うことでしょう。気づけば前回の投稿から3ヶ月も経ってしまいました…。
自分で自分が嫌になります。
え~と…書きたいことは山ほどあるのです。
お目汚しは承知していますが、私は書くことで発散できるタイプなので
時系列がおかしくなろうが何だろうが、どんどん書き散らしていけばいいのだろうと思いつつ…
何だかもう、、、本当に嫌になってしまうほど“トホホな出来事”が続いていて
気持ちを建て直して文字にすることに時間がかかっております。
母のこと、仕事のこと、そして聞くもおぞましい親族トラブルのこと、
三文ドラマ的なネタには困らない状態ですが、今日はとりあえず工房のその後について書こうと思います。
★━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━★
前回の投稿で書いたように、今年の年明け早々、予想もしていなかった「失業」という現実が降ってきました。
晴天の霹靂でした。
失業することが判明してすぐに就活を開始しましたが、見事全滅でした。
今、コロナの影響で社会が不安定となり、ただでさえ仕事を探すのが大変厳しい状況。
しかも来月には58才

全滅は予想通りです。
前回も書きましたが、この記事で散々迷って、せっかく採用してくれたところを辞退したことが
返す返す悔やまれてなりません。言っても仕方ないことだと百も承知なんですけれど…。
本当に本当に本当に…あの時転職していれば良かった…

言っても仕方ないついでに吐き出すと…
実際に不採用の連絡が続くと、当然気持ちが落ちていき、吹っ切ったはずの元職場への感情が顔を覗かせます。
自分が働かなければ生きていけない私の事情をよくよく知った上で
このコロナ渦にこの年齢の職員を切るとは、なんて残酷なんだろう。
いえ、それが残念ながら社会ではあり得ることなのは理解しています。
ただ、雇い止めは仕方なかったとしても、上司の冷酷無礼な態度に、今も心がズキンとするのです。
私の退職が決まった後の上司の態度は、あまりに冷酷でした。
決して容易ではない深刻な業務に、チームで取り組んできた仲間だったはず。
3年間の間には、かなり個人的な話もした。
その仲間が、仕事に就けず路頭に迷うであろうことは容易に予想ができるのに、
相談に乗ろうとするでもなく、最後まで完全に無関心を貫いていました。
自分たちは親方日の丸で、コロナの影響と言ったら業務が忙しくなることくらい。
経営がひっ迫するわけでもなく給与は安定している。
辞める人の今後のことなど、知ったこっちゃない。ってとこでしょうか。
「所詮、駒」という現実をイヤと言うほど味わった最後でした。
今も時々、苦いものがこみ上げてしまいます。
吐き出しが長くなってスミマセン(^^;)
つまり、見事に路頭に迷っているわけで、ついつい恨めしい気持ちの燃えカスが
プスプスと煙ってしまうんですね。
仕事の内容にやり甲斐を感じたことも、燃えカスが煙る理由のひとつだと思います。
私が福祉の世界に足を踏み入れたのはちょうど10年前。
最初の勤務先では、単純作業だけしていました。
次の勤務先で約6年間地域福祉に携わり、そこで資格を取ってケースワーカー職に転職しました。
この転職は、収入を増やさなければ!…というのが一番の理由でしたが
福祉仕事に若干の適性を自覚したということも理由のひとつでした。
私は児童福祉分野のワーカーでしたが、私にとっては大変ハードな業務で
何度も「もうダメ。もうムリ」と思いました。
それが3年目を超えた頃から、本当に少しずつですが手応えのような感覚を覚えるようになり
ようやく自分で考えた支援ができるようになったと感じていた矢先の…雇い止めだったのです。
この先、この絶望的状況&条件の中で納得できる仕事に就ける可能性は
限りなくゼロに近いと思っています。
職種にも給与にも一切希望を言わなければ、何かしらの仕事は頂けるかもしれないけれど
もし、私が次にどこかで働くとしたら、それは恐らく人生最後の雇用先になるのではないかと思うので
ある程度納得できる所で長く働きたいと望むのです。
さて。
この状況を お菓子1本で身を立てていくための、神からのお告げね


完成した工房で、自営に本腰を入れればいいじゃない!という意見もあると思います。
私が工房を作ったことを知っている友人知人は、この後に及んで職探しをする私に
「個人事業主としてやっていく覚悟がなさすぎる」
「そんな、どっちつかずだからうまくいかない」
「何のために工房を造ったの?」
「工房費用のムダじゃない」
等々、当然の感想をぶつけてきます。
しかし、呆れられるのを覚悟で言うと、私はお菓子しごとを「副業」として考えていました。
私の作るものを気に入って下さり、時々声をかけて下さる方たちに
営業許可を取った工房で作ったものを堂々とお届けしたい…というのが工房作りの出発点でもあり、
定年退職後は、元気ならそこで自分の体力で作れる分だけお菓子を焼いて販売できたら…
と、考えていました。
根性がない考えなのかもしれません。
「その程度の覚悟だったのね」と言われても仕方ないです。
でも
私は50代半ばにして自分で生計を立てていかなくてはならなくなった身。
それも非正規雇用。
93才の母、大学生の息子もいる。
利益が100円200円の焼き菓子を買っていただいて、果たして生きていけるのか?という不安もさることながら
一番怖かったのは、当然ですが「コンスタントに売れる保証などどこにもない」ということでした。
営業能力皆無でコミュ障の私は、自ら売り込んだりイベントに参加したりするのは苦痛中の苦痛。
(福祉仕事の時はかなりのコミュ力を発揮できるのですが、これはペルソナだと自覚しています。)
そんな人間ですから、開店休業状態になっても不思議ではない。
そのような不安を口にする私に知人たちは
やらないからできないの!
できない人は挑戦していないだけ!
成功する人はとにかく始めてしまう人!
と言ってくれ、それは本当にその通りだと思うものの、今もまだ覚悟ができないままです。
営業者を変更までして職場と何度も交渉して、やっと「兼業のスタートライン」に立ったつもりだったけど
まさか失業するとは思っていなかったから、今は仕方ないと言い聞かせるしかできません。
またプランの練り直しです。
私だって、昨年末のたった2回の販売のためだけに工房を造ったなんて、マヌケすぎる結末を
受け入れる気はありません。
福祉の仕事も、お菓子の仕事も、どちらも大切なのです。
定収入もライフワークも、どちらも大切なのです。
それを「どっちつかず」と言われたらそれまでだけど
いずれ家族構成や生活スタイル、自分の体調などが変化していけば
自ずと次に進む道に迷うこともなくなるでしょう。
ただ、もうしばらくはこんなどっちつかずの生き方しかできない気がします。
仕事を探し、その合間に余裕があればお菓子も作り…。
こんな、優柔不断が服を着て歩いているような私ですが、
もがくアラ還の一例として、面白がって見物して頂ければありがたいです。
今回も長々と失礼いたしました(^^;)
いつも本当にありがとうございます。感謝しかありません。

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2021大変始め part1

「大変だ大変だ」と言い続けて何年になるだろう?
私生活の雲行きが怪しくなったのは、5年くらい前だと思う。
それから今日まで、聞いたこともない困り事が次から次へと頭上に降ってきて
ハッ!ヨッ!ソレッ!と、曲芸みたいなイメージでそれぞれに対処する日々が続いた。
だから、ここ数年の私のブログには「大変」という言葉が何度も登場してしまったと思う。
私よりもっともっと苦しい日々を送っている人もたくさんいるでしょうし
そんな方から見たら…いや、そんな方でなくとも
しょっちゅう「大変だ大変だ」と言っている人物を、快く感じる人はいないと思う。
まず「愚痴」っぽいし
負のオーラが感染しそうだし
「アタシはかわいそう感」も漂ってる気がするし。
そもそも、ParadoxKitchenはお菓子ブログ(だった)。
お菓子=happyなイメージの代表選手。
いつも悩み苦しんでる人の作るお菓子なんて、魅力的ではない!
…と、この数年はいつも自分の状態について、漠然と引け目を感じていました。
もう「大変」て言うのはよそう。プライベートはキッチリ飲み込んで、ステキお菓子ブログにしたい!
…と何度も思いました。…けど。
だけどね
終わってくれないんです、大変が

やんでくれないんです、困りごとの雨が!

年末からまたまたガックリくる出来事が続きましてね
昨年までの地獄に比べたら可愛いものなのですが、ちょっと垂れ流しさせてくださいますか。
前回この記事で
菓子との兼業のために転職を考えたけれど、一定の収入を減らすことが怖くて覚悟ができず
悩んだ末に元の職場に残ることにしたことを書きましたが…
その約1ヶ月後の年始初出勤の日に、なんと雇止めを通告されました

と、その話をする前に…12月半ばからの1ヶ月間に、92歳の母が3回も救急搬送された話を挟みます。
母は3回とも入院となり、そして退院と同時に母にとって初の施設入所をすることになったのですが
1度目の入院⇒数日間入院⇒退院後、施設Aに短期入所⇒年末に施設で発熱し、元日再度救急搬送⇒
数日間入院⇒退院後、施設Aに戻る⇒施設でまた体調を崩し、再々救急搬送⇒数日間入院⇒
退院後、施設をBに変更して入所(今ココ)…
経験した方ならわかると思いますが、これらの諸手続きや準備対応は中々大変(また言った)でした。
折しもコロナの第3波が牙をむきだしたタイミングでもあり、一旦入院や入所をしてしまったら最後、
直接母と話すことは叶わず、つまり何の説明もしてやれないのです。
自分の身に起きていることがわからず突然家に帰れなくなった母は、どんなに心細かっただろうと思います。
更に、同時進行で介護度の認定再調査や限度額認定の申請、身の回り品の調達など
とにかく私は何が何だかわからない忙しさでした。
し・か・も!
年末に母が施設で発熱したと同時期に、なんと次男も発熱!

すぐにコロナ感染を疑いましたが、よりによって年末。病院も行政も全てクローズしてる。
母の施設からは「医者へ連れて行った方が良い」と言われるけど
もし次男がコロナだったとしたら私は濃厚接触者。
そんな私が母を病院に連れて行くことは果たして安全なのか!?
市の救急対応相談窓口に電話をしてみても、非常に冷たく不親切な対応。
医療タクシーを手配しようと思っても全て断られ…
母と息子のどちらを病院に連れて行けば良いのか、というか、どうやって連れて行けばいいのか
どうしたらいいのーーー状態に。(この顛末は次回書きます)
…と、そんな紅白もお雑煮もない散々な年末年始を過ごして、
ゲッソリした顔で初出勤した日の帰りに、上司から雇止め通告を受けたのですよ。
なんでも
「来年度、部署の体制を厚生労働省の指針に沿って改革することになった。
指導的立場の人材を新たに募集する事になり、そのかわりに現在3名いる相談員を2名に減らさなくてはならない」
とのこと。
私は福祉相談員をしていました。
3年任期の契約で、任期満了時に再試験を受け合格すれば、また3年働けると説明されていました。
現に、3名のうちひとりは1度再試験を受けて現在5年目。もうひとりは1年目。
残る私は、ちょうど3年目。
…つまり、私以外のふたりは任期中だから簡単には辞めさせられないけど、
私を切る事は『任期満了』の円満退職にできるのです。
というわけで『アツさんは任期満了で継続無しという事になりました(^^)』と、新年初出勤の日に告げられたわけです。
正職員ではないので、こういう可能性を想像しないわけでもなかったけど、
特に問題がなければ3年ごとの試験を受けて何度も延長できると聞いていたし、
12月にさんざん悩んだ末、採用してくれた先を辞退して現職場に残る決心をしたばかりだったのでショックでした。
(それは私の勝手な都合ですが)
上司は、動揺する私に釘を刺すように『確実に再任用できると決まっているわけではないので』と、
組織の正当性を主張し、
更に、『アツさん以外の2人のうちどちらかが今年度限りで退職したいと言った場合は、
アツさんに残ってもらうことになる』と言われ、
2人の進退が確認できるまでの10日近く、辞めずに済むのかどうかわからず宙ぶらりんになりました。
自分の今後がハッキリせず不安な10日を過ごしたある日、再び上司に呼ばれ
『2人とも来年度も続けるそうです。なのでアツさんは今年度いっぱいという事で…』
と告げられ、嫌な場面を2回味わわせてもらいました。
更に、『これから募集する人材が決まらなかった場合は、決まるまでの間アツさんに働いてもらうことも
可能ですが、それも失礼な話ですよね?』と言われ、
ふざけろ という思いが抑えきれず、
「今年度いっぱいではなく、2月いっぱいで辞めます」と、大人気ない発言をしてしまいました。
担当していた業務は中々ヘビーなもので、
この3年間、自分にはとても務まらないと何度も挫折しそうになりながら、手探りで進んできました。
3年勤めて、ようやく、うっすらと、ほんの少し、仕事がわかり始めたような気がしていたタイミングだったので
正直ガックリ落ち込みました。
対応中だった方々のことも気がかりでした。
そして何より『どうやって食べていこう?』という恐怖にも包まれました。
57才で、コロナ禍で、職探しです。
やっと少し積んだ経験や、構築した連携機関との関係性も全てリセット。
今の仕事に就いた54才の時、「60才近くなって再び職探しなんてことになったらエライこっちゃ」と
3年後に再度任期更新できる前提であることを確認したのに。
3年前、どういう思いでここに転職したか…。
やっぱりアレかな。
兼業を申し出たりしたのがいけなかったのかな。
しつこく食い下がるから一旦承認して年度末で切ろうと考えたのかな。
これを『ピンチはチャンス

気持ちの持ち方ひとつ?
何とかなる?
そんな風に考えられたら「ポジティブ!」と、拍手なんでしょうけど、今の私は喪失感と挫折感でいっぱい。
こんな事態のために工房を作ったのだから、今こそ菓子作りに全集中すべきなのは
分かっているものの、自己ベーシックインカムを失った焦りで気持ちを切り替えられずにいます。
というわけで、有給も全部使ってやると決め、2月初旬に職場を去りました。
今は毎朝毎晩、求人サイトをチェックしています。
ハローワークにも行きました。2ヵ所応募もしました。面接も受けました。
“稼いでくれる誰か”がいないので、どうしても焦ります。
去年12月に採用してくれたところを辞退した時、まさか1ヶ月後に雇止めされるなんて夢にも思っておらず
つくづく自分のいう人間のやること・決める事が全て誤りのようで嫌になります。
…と、こんなにも長々書きましたが、
これは序章に過ぎず、本当の“大変”は2月末に降ってくるのでした。あはは。
つ~づく~。
いつも本当にありがとうございます。感謝でいっぱいです。

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出せなかった勇気と完売と感謝。(工房作りへの道・オープン編)

こんにちは!
前回、二転三転四転した末、や~っと職場から兼業許可は得られたけれど、
今度は健康診断で引っかかり精密検査を受けねばならなくなった上、
今の職場では兼業認めてもらえそうもないから転職活動も始めちゃって、色々どうしましょう!と、
若干尻切れトンボ気味に終わりましたので、その後のお話を書かせてくださいませ。
まず、検査の結果はセーフ!でした。よかったぁぁ…。
正確に言うと、別の問題が浮上しちゃって、それはそれで放っておけることではなくて
今後どうしたものか考えなくてはならないのですが、メインの精密検査結果に関してはセーフでした。
この精密検査も、歯医者も行けない私ですのでひと騒動(;^_^Aあったのですが、それはまたの機会に書かせてください。
改めて…。
この半月は、転職活動の方でザワつきオロつきゴタつき…でございました。
現職場が、兼業の可否について3度目の交渉後、全く返答してくれなかったため、
見切りをつけてある求人に応募したのが11月半ばの週末。
仕事が終わってから郵便局に駆け込み、特定記録郵便で履歴書を送付しました。
数日後「書類選考通過」の書類が届き、面接となりました。面接日は精密検査の翌日でした。

堅い職場の堅い業務だけあって、中々に重圧感のある面接を終え、
さぁ、これでどうなるかな…と思っていたら…
なんと、面接の次の出勤日に現職場から「兼業許可」の知らせがあった!
何このタイミング…

どうしよう。これで応募先も合格しちゃったらどちらかに決めなきゃいけなくなる…。モヤモヤモヤ…。
そして数日後、ポストに「採用通知」が投函されたのです。
そしてそこから、「迷いの10日間」が始まりました。
やっとのことで兼業許可を貰えた!これは間違いなく喜ぶべきこと。
でも、正直言うと今の職と菓子の仕事を上手に両立させる自信は、ありませんでした(え?)。
まず時間的余裕がないこと。そして、正社員ではないものの、それに準ずる立場にいるため責任は重めでストレスフル。
土日の休みのうち1日は、ひたすらボ~ッとして疲労回復させているのに
そんな状態で兼業での製菓ができるのか?と問われたら、自信はなかったんです。
必死で兼業許可を得ようとしていたくせに、激しく矛盾してるんですが、本心でした。
その点、応募先の雇用条件は、週2日~3日勤務。
「製菓」と両立させる時間的余裕が増える!
元々「製菓をするための転職」だったのだから、とても好都合。
ならば、めでたく採用してくれた新しいところに行けば全て解決

ところがですね(^▽^;)、今度は「給与の減少」が心配になってくるという…。優柔不断の権化の私。
何しろ私は、老後ひとりで生きていかねばならない身。
自分の生活費は自分で稼ぐしかない。
“製菓製菓”と言っているけど、全ての作業をひとりで行うのだから、大した数は作れない。
それ以前に、売れるかどうかもわからない。全然売れない可能性も充分ある。
もし製菓が全くうまくいかなかったら、その時支えてくれるのは、やっぱり勤め人として得られる給与所得。
転職先は勤務日数が少ないのだから、当然給与収入はガクッと減るわけで、不安…(^▽^;)
今だって、人が聞いたら「それでよく生活できるね」と思うような収入しかないのに、そこから更に減るのは怖い…。
迷いに迷って、インスタグラムにも「迷」の一文字をアップしたりとバカなことをして
数日うんうん唸った結果、
「退職する場合は最低1ヶ月前に申告」という期限の日を迎え、最終的に「現職場に残る」という決断をしました。
やはりどうしても怖かったのです。収入が激減することが。
製菓の仕事は「やってみたかったこと」だけど、だからと言ってそれが生活の支えになるとは到底思えませんでした。
まだ大学生の次男がいる身として、冒険はできないと思いました。
せっかく兼業許可ももらえたわけだし、今の職場で「できる範囲内で」頑張るしかないと思いました。
そして応募先に連絡し、辞退したい旨と多大なご迷惑をかけたお詫びを告げ、
迷うことから解放され「これで良かったんだ…」と自分に言い聞かせていたのですが…
なんと…応募先が「雇用条件の変更」を提案してきてくれたのです。
えええっ!?どうしよう!
再び迷いの始まりです(笑)
この後応募先は2回も条件を変更してくれ、本当にハゲそうになるほど迷いました。
そして、ここまで配慮してくれたからには応えないわけにはいかない!と思えてきて
(単に、他に応募者がいなかったというのが実際のところだと思いますが(^▽^;))
ついに転職を決心し、新しい職場までの交通手段や、何曜日勤務にしようかなどを考えていたのですが…
そこで息子にこう言われました。
「今の仕事をしながら菓子を作るのは時間的体力的にはキツいだろうけど
キツければ菓子屋は休めばいいだけのこと。余裕がある時だけ菓子を作ればいい」
「転職したら菓子に充てられる時間は増えるけど、減った収入分を菓子で埋めなきゃいけなくなって、菓子作りがノルマになる。
母の性格では、ノルマになった途端菓子作りが苦痛になるのが目に見えている」
はは…よくご存じで (-_-;)
おっしゃる通り、私にとって菓子作りは「作りたい時に作りたいものを作る」から楽しいのであって
「〇〇円売らなければならない」となったら、苦痛になるかもしれません。
「商売をなめるな!甘い!」と叱られるかもしれないけど、今さらかっこつけても仕方がない。
私は菓子作りが「好き」でいたい。「作りたい」と思って焼きたい。
60近い自分が6畳ぽっちの工房でする作業は、「商売」ではなくライフワークだ…。
やっと心が決まりました。
12月4日の金曜日。応募した転職先に改めて応募辞退を申し出ました。
正直に事情を話し、私のせいで求人スケジュールが狂ってしまい、とんでもない大迷惑をかけてしまったお詫びをして
この転職劇は幕を下ろしました。
そして…
そして、翌日12月5日。
ドキドキしながらInstagramで初めての菓子販売の告知をしました。
デビュー作は、私が大好きなダークフルーツケーキ。

販売告知にどなたからも反応がなかったらどうしよう

かといってそこにいると気になってしまうから、投稿後すぐに風呂に逃げました(^^;)
風呂からあがり、恐々スマホを見ると…
ありがたいことに、約1時間の間に予定数を完売してしいて、お断りをさせて頂く方もいるほどの反響がありました。
そもそもの予定数が少ないし、ご祝儀相場だし、商売と呼べるものではありませんが、
充分すぎるほど光栄で、ありがたくて、嬉しい初売りとなりました。
Instagramを見てくださる方の多くは、このブログを見てくださっていた方で、
中には「COOKPAD時代から見ています」と声をかけてくださる方もいます

終わらない試練に耐えられそうもないと思った時も、無謀な挑戦を試みようとする時も、
いつも私を支えてくれるのはこのブログの向こう側にいる方たちでした。
矛盾厨房~ParadoxKitchenを始めて、今年で15年目。
当時は子育て真っ最中で、ハビ・ハル・シオンも元気で、ブログの内容も陽気なものが主でした。
近年は、想定外の苦難が渋滞を起こすほど押し寄せて、愚痴と泣き言ばかりになってしまいましたが
本心を隠さず書けたおかげで、心が救われたと感じています。
このブログがなかったらどんなに孤独だっただろうと思うし、ここまで来られなかったでしょう。
お菓子ブログでなくなってしまったのに、見捨てず覗きに来てくださった皆さまには感謝しかありません。
これからも、進んでは戻って横道に逸れて…は変わらないと思いますが
細く、長く、お付き合い頂けたら幸いです。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします!
そして
いつも本当にありがとうございます(* ´ ▽ ` *)

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工房作りへの道④最終回

大変大変ご無沙汰しております。
「工房作りへの道」を書き始めて4ヶ月も経ってしまいました。
最終回が中々書けなかったのには理由があります。
前回は、職場に兼業届けを申請したら却下され、
「息子が事業者となれば良いのではないか」と2度目の申請するも再び却下され
「開業するのか、今の仕事を続けるのか」の2択を迫られたところで終わりました。
あれから私は、絞りカスすら残っていない脳をまた絞り、悩んだ挙句…
保健所に「廃業届」を出しました。
5月に晴れて営業許可の取れた厨房を、未使用のまま4ヶ月後に廃業したのです。
理由は、私の店ではなく息子の店にするため。
前回書いた「息子が開業届を出す」というのは、税務署管轄の手続き。
店の納税に関しての対象責任者が息子になるってことです。
それに対し、厨房の営業許可は保健所管轄の手続き。
保健所に申請する「営業者」には、その店で販売した物に対する全責任がかかります。
今の職場から
「もし食中毒などのトラブルが発生したら、お菓子の制作者であるアツさんが全く対応しないというわけにはいかないでしょう。『食中毒の出たあの店は、実は〇〇〇の職員の店なんだって』という事になっては困る」
と指摘されましたが、
私が営業者ではなく、ただの製作スタッフだとしたら
トラブルが起きたとしても対応の必要はなく、私の名前が出ることも(基本的には)ないことを
保健所に確認し、息子の店にすることを決めたのです。
もちろん、勝手に息子に責任を押し付ける気はありませんでした。
息子は正社員として仕事をしていますから、この事で息子の立場が揺らぐような事は
絶対に嫌だし、息子の考えもあります。
しかし、息子の勤め先は私の職場と全く違って、非常にリベラルな環境。
むろん条件はありますが、副業に対しても肯定的なのです。
そういう環境にいることもあってか、息子は私の職場の対応に憤慨していました。
やっとの思いで工房を作ったのに、納得しにくい理由で職場から何度も「開業阻止」をされている状況を
打開したいと思ってくれていたようで、「自分が営業者になる」と言ってくれました。
保健所から、名義変更という手続きはできないので
このような場合は一旦廃業して再申請するしかないと言われたので

まずは廃業することになったのです(笑)
しかも、つい先日現地調査をしたばかりの厨房でも、再度訪問調査が必要と言われ

更に、当然ですが申請料も再度必要と言われ

全ての手続き(費用も)を9月下旬にやり直し、10月に新たな営業者名での営業許可が取れたのでした。
全く何やってるんだろうかと思いながら。(^^;)
営業者変更について、私は職場に事前相談をしませんでした。
先に「こうすればOKですか?」と相談してしまう事が得策ではない気がしたからです。
7月に「(どちらにするか)考えてみてください」と2択を迫られたところで交渉は途切れていて
営業者を変更してもダメならば、もうこの職場を続ける気持ちにはなれないと思い、
いわば“賭け”のような気持ちで、数日迷ったあと上司にこの事を伝えました。
上司は「総務に確認して回答する」と言ってくれました。それが10月末のことです。
ところがこの後!
再び私事トラブルのゴタゴタの燃えカスが再燃したのですから参りました~。
本当に、何でいつもこうなるのか!?
今確認しておかなければ厄介なことになるであろう問題が浮上し、
弁護士2軒、税理士1軒に新規相談することになったのです。
この「新規相談」てのがですねぇ…。弁護士さんを「探す」ってことがまず大変なんですよね。
得意分野、料金、相性…、会ってみないと分からない(ネットで大体はわかったとしても)のに、
相談料金30分5,000円という価格でしょ?たった30分で自分の問題の糸口と、
相手の人柄や実力を判断するって容易ではない。
自宅から30分程度で行ける範囲内で、条件の合いそうな弁護士さんをネットで調べまくり
予約を取って相談に行くことにしました。
1軒目の弁護士は、早口で専門用語多用。挙句「ご自分で手続きした方が確実に早いですよ」と
あからさまに「引き受けたくない感」出しまくり。
2軒目はもう少し親身になってくれそうな印象でしたが、結局どちらとも契約にはならず。
解決方向が見えず、今後どうしていこうかとモヤモヤイライラしていたら…
さらにこの後!
9月に受けた健康診断で、まさかの「要精密検査」判定が出てしまいました

オーマイガー!です。
去年も引っかかって11月頃は重~い気持ちで過ごしましたが、
今年は全く別の項目で引っかかってしまったのです。
うっそぉ~~~…

そしてそして、肝心の職場の回答は、
1週間経っても10日経っても、職場上司から兼業可否の連絡がありませんでした。
やっぱりダメだったのかなぁ。3度目の「兼業ダメ」宣告受けたら、転職しなくちゃならないかなぁ。
でもこのトシで転職って一体どこへ!?
あ、そんな事言っている場合じゃなく、入院になるのか? それとも死んじゃうの??
…と、私の頭の中は多方面の心配事、迷い、焦り、そんなものでグルグル状態。
数日間、仕事中も動悸がして夜もあまり眠れない日が続きましたが(単純だからすぐに身体に反応が出る(^^;))
落ち着け落ち着け、順番に対処していくしかない!と自分に言い聞かせ
とりあえず最優先すべき精密検査の予約を取りました。(明日です)
そして転職地下活動も始めちゃいました。(奇跡的に書類選考通過!精密検査の翌日面接試験です)
そしたらなんと!
そしたらなんと!
昨日の退社時、上司から兼業許可するとの知らせがあったのです!
(*´Д`) ハァハァ……
というわけで、朗報凶報入り乱れの10月~11月でございまして、
結論の出ていないことだらけで中々ブログが書けませんでした。
検査を終えてもおらず深刻な病気かもしれない…と不安だし
転職活動、一旦辞退すべきか最後まで受けてみるべきか…と迷っているし
非常に後味の良くない最終回になってごめんなさい。
だけどとりあえず兼業許可が下りたのは事実。
厳密に言えば私の工房ではなくなったけど、そこで働いてもいいよという許可が下り
“工房作り”というテーマに対してだけは、ひとつの結果が出たと思います。
この工房が“活用”されるのかどうかが次の課題ですが、
スローペースもここまで来ると「生きている間に一度でも活用できればヨシ」という気分になってきました。
ParadoxKitchenも工房も、自己表現として緩やかに自分らしく続けていければいいのかな…と思っています。
長々と書き散らしましたが、お付き合いくださり本当にありがとうございました。
明日の検査がんばれよ!と思って下さったらクリックお願いします (^▽^;)

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工房作りへの道③

またずい分あいてしまいました。すみません!
ニーズがあるとも思えませんが、完結させないのも行儀が悪いので、
私の工房作りまでの道のりの続きを書きます。
苦節十数年(笑)の末に、60近くなってとうとう“物理的及び法的”には工房を作ることができた私(執念?)。
実際に、何を作ってどのような方法でどなたに買って頂こうとするのかという、
いっちばん大切な事は何も考えていませんでしたが、とりあえず職場の上司に「兼業許可申請書」を提出しました。
そうすれば、これまでのようにたまのお声かけで頼まれ物を作る事があった時、
堂々と店名をお伝えすることができる。それが少しずつでも繋がっていけばいいなと思っていました。
そうだ。店の屋号の事を書いていませんでした。ちょっと脱線させてください。
屋号はあれこれあれこれ考えました。何しろ考える時間はタップリありましたから。
少し若かったころは、オシャレな店名(漠然とし過ぎwww)を模索した時期もありました。
しかし店名にも流行があって、シンプル横文字系、扱っている商品や原材料そのまま系、
ていねいな暮らし女子のポリシー宣言系、昭和レトロ系、意味不明な仮名文字系…(この表現で伝わるかな~~!)など、
その時々で主流の傾向があるんですね。
それらは、最初はインパクトがあっても、時間が経つと色褪せて聞こえる気がしました。
ならば私らしい屋号を追求しようかなと考えてみましたが、
へそ曲がりな自虐人間ゆえ「枯葉」とか「落ち葉

「縁起が悪い」という友人の声に、じゃあ横文字にすれば縁起の悪さをごまかせるか?とGoogleで翻訳してみると、
Fallen leavesとかautumn leavesとかDead leavesと出てきたけど、さすがにDeadはまずいでしょ(笑)となったり…。
ギリギリにならないと仕事ができない性格だからjust in timeとか…(英語は全く分からないのでGoogle翻訳まかせ)。
そのうち何だか分からなくなってきて、考えるのも面倒になり「もー猫の名前でいいや!」と…半ば投げやりになり、
屋号が決まったのでした。
(検索すれば分かりますが、職場との話し合いに決着がつくまでは文中に店名を書くことはやめておきます。
職場が私ごときの同行を注視するとは思えませんが、ここを見られる可能性もあるので…。)
話を戻しましょう。
そんなわけで今年の夏の始め頃、職場への兼業申請書に必要事項を記入して提出すると、
上司は「社長さんね、がんばって」と声をかけてくれました。
ところが数日後…その上司から「話がある」と呼ばれ、
「アツさんのような兼業内容は前例がないので厳しいかもしれない」」と言われました。
そして、2年前に全職員に回覧された「職員の営利企業等の従事制限に関する書類」とは別の、
新たな条件について細々と書かれた書類を差し出され、
「ここにもあるように、認められる自営業というのは、不動産・駐車場の賃貸業または太陽光の販売のみ。
それ以外の場合は、アツさんの副業が“職全体の不名誉とならないこと”を証明できる書類の提出が必要」と言われました。
はぁ!?
なんで!?
私は、職員規定を隅々まで読んで「これなら大丈夫」と判断したから工事しました。
なんで後出しで条件が増えるの?ていうかその書類なに?
以前回覧された書類の『兼業とは次に挙げるものをいう。』という項目の中には
と書いてあり、自ら営利を目的とする私企業を営むこと。
そこには「不動産・駐車場の賃貸業云々」だとか「職全体の不名誉」だとかは一言も明記されていないのに!
そもそも不名誉の基準って何?
例えば、下品な商品を販売すると不名誉で、高級なものを販売するならOKとか(笑)?
ごめんなさい、くだらない事言って。
でも、その時の私の気持ちはそうでした。
そんな書類の事は聞いていないと反論してみましたが
「アツさんのようなケースは“前例”がないために、こちらも詳しく調べたところこのような文書に行き着いた」という
出た~~ ザ・前例
まぁ、上司は意地悪で言っているのではなく、総務に言われたことを伝えているだけなのは分かっていたので、そこで暴れたりすることはせず、後日「私なりの回答」をすることにして、一旦引き下がりました。
さてどうしましょう。
あの様子だと、私ごときが何か説明したところで事態は1ミリも動かないだろうことは分かる。
泣き落しや懇願でどうにかなる世界ではないことは、働いている者としてよく知っています。
そこに合理性があるかどうかは関係なく、前例主義、ルール主義な世界です。
私の開業が、主婦の趣味の延長的なものではなく(主婦の趣味の延長を否定しているわけではないです。)、
もうちょっと切羽詰まった事情があることや、ここまでくるのにどれだけ山坂越えてきたかなんてことは、
一切断じて考慮してもらえないことも知っています。
総務が「許可」という印を押してくれるとしたらそれは、
上司の説明通り「私の副業が“職全体の不名誉とならないこと”を証明できる書類」を提出した時しかないでしょう。
そんな(笑)
できるわけがないでしょう。
そもそも名誉・不名誉の意味も分からないのだから、何をもってすればそれを「証明」などできるのかがわかりません。
職場側は「ほぼ不可能」な条件を提示することで、「やみくもに否認したわけではない」というエビデンスを作った上で
絶対に認めないつもりなのでしょう。
さあどうしようかな~。
退職しない限り開業できそうもないけど、お菓子の仕事1本で生きていけるとは到底思えないし。
かといって、契約満期なり定年なりで今の職を退職してから店を始めるというのは、今でも充分過ぎるほど高齢な私にはあまりに非現実的なプラン。
しかし、きれいさっぱり開業のことを忘れて、今の職に打ち込むことができるか?と考えたら、その覚悟をする自信もない。
毎日、使われないまま朽ちていく工房を眺め、そして職場に対するある種の恨めしさを抱えながら働くというのは、精神衛生上非常に良くないことは想像つく。
…と、突きつけられた「ほぼ不可能」な条件に戦意喪失し、色々な思いを抱えて帰宅したその日の夜、
息子にその事を伝えると、息子が「自分が開業届を出せば、事業主がアツさんじゃなくなる。そうすれば文句はないだろう」と提案してくれました。
ありがとう息子。それが果たして“職全体の不名誉とならないこと”の証明になるかどうかはわからないけど、
このまま引き下がるのも悔しいから、とりあえず主張してみることにしました。
そして翌日、上司に「息子が開業届を出すことにしました。事業主は息子になるので、私はそこで働く従業員にすぎないことになります」と伝えました。
上司は一瞬「え…」という表情をしながらも「わかりました。総務にはそう伝えます」と言ってくれました。
しかし数日後。上司から「アツさんちょっと…」と声をかけられて告げられたことは
「やっぱりダメ」という言葉。
「もしもその店で食中毒などのトラブルが発生したら、お菓子の制作者であるアツさんが全く対応しないというわけにはいかないでしょう。狭いこの町で『食中毒の出たあの店は、実は〇〇〇の職員の店なんだって』という事になっては困る」
また「副業は、今の業務に差し支えないことが条件。例えば、勤務中にアツさんのお店の水道が破裂したり火事になったりしても、お店に駆けつけることは絶対に許されない。いくら事業主が息子さんの名前でも、アツさんが対応しなくてはならないはず。その観点からも認めることができない」
…と言われました。
そして「どちらか(勤務か店か)選んでください」と言われました。
チーン。

私は「考えます」と答えました。
それが約2ヶ月前のこと。
ん~~。人生厳しいですね。
正直言うと今の私は、勤務と菓子屋を両立させる自信なんて小さじ1杯もありません。
もし副業が認められても、当分は「不定期での数量限定販売」が精一杯だと思っています。
かと言って、仕事を辞める勇気もありません。
ええっ!?あんなに山坂越えてやーっと工房を作ったのにその程度の気持ちなの?と思われるかもしれませんが、
それこそ「主婦の趣味の延長」でお店を始めたいと思っていた頃とは状況が一変してしまったのです。
50代にして突然、ひとりで生きていく人生になりました。
結婚後の30年以上主婦とパート勤めしかしてこず、青天の霹靂で熟年離婚をしたばかり。
この年で生まれて初めて世帯主となり、社会的責任の全てを「自分ひとり」で担ぐことになりました。
不謹慎な発言ですが、突然の離別と死別とでは、その後の人生が天と地ほど違います。
それまで抱いていた自分の老後のイメージは木っ端微塵に砕け散り、“路頭に迷う貧困孤独老婆”となるかもしれないという現実に直面しました。
これは恐怖でしかありません。
貯金も年金もない自分がこれからどうやって生きていくのか。収入が途絶えたら息子に迷惑がかかってしまう。
父親のことでこれまで散々苦しめてしまった彼らに、母親までもが負の存在になるなんて絶対に避けたい。
世の中に、シングルで颯爽と生きている女性はいくらでもいて、
何を大げさな…と思われるかもしれないけれど、50代後半でのシングル初心者&夫トラブルの後始末祭りで
解放を喜ぶよりも不安の方が大きかったのです。
…販売に対する具体的なことは白紙のまま勢いで工房作りをしたのも、そんな恐怖でジタバタと慌て「何でもいいから何かしなくては!」という焦りがあったからです。(常にジタバタしていてお恥ずかしいです)
今の仕事も正社員ではなく3年任期の仕事。今年で3年目なので、任期延長してもらうためには試験を受けなければならないし上層部の「ご意見」も反映される。
グダグダ書いてしまいましたが、だから今の私にとって開業するという事は「定年のない職場の確保」「無職になった時のため」という意味合いが大きいのです。
でもね、職場にはそんな事情は関係ないし、そもそも私は雇ってすぐに倒れて休暇を取った迷惑職員。
「あの人また何か言い出したよ」という存在ではないかと思います。
とにかく、「どちらか(勤務か店か)選んでください」という言葉の意味は、
ズバリ「開業したけりゃ辞めてね」ということ。
「わかりました。開業したいので辞めまーす」と言えたらどんなにスカッとするだろうと思ったな~~!
あれから2ヶ月が経ちましたが、私が「考えます」と答えたのを最後に、それ以降上司はひとっこともその話には触れてきません。
上司は、私が1年半前に命辛々離婚したことも、安くないお金を使って自宅を工事してしまったことも、
開業を諦めたらその工房が丸ごと「無駄」になることも全て知っているけど、
一切何も、「どうなった?」という言葉すら言ってきません。見事です。
私自身も、夏は仕事が非常に忙しかったこともあり、少しその事から気持ちが離れていました。
しかしいくら「たまの販売が精一杯」の開業計画だったとしても、使われないままの工房を放置しておくのはあまりにもあまりにも悔しく、最後の賭けに出る事にしました。
あ、あれ…?
今回で最終回のはずが、あと1話になってしまいました

ごめんなさい。次回こそ最終回にしますので、もう少しお付き合いくださいませ。
次回は決着がついているはずです。(悪い予感しかしませんけれど)
工房話が終わったら、
我が家のトラブルのことについて少し具体的に書いていこうかなと思っています。
トラブル真っ最中の頃は、恥ずかしさと惨めさで「こんな事誰にも言えない。言えるわけがない」と思っていました。
内容が内容でしたから。
こんな風にブログで全世界(笑)に発信しちゃいましたが、実生活で事の詳細を伝えた相手はひとりかふたりくらいです。
人は「途方もない困難(その人にとって)」に直面した時、公的・私的それぞれの支えがなければ倒れてしまうと思います。
しかし、その困難が「打ち明けることがためらわれる内容」だった時、人は強烈な孤独感に襲われ、
その孤独感は人を追い詰め力を奪います。
追い詰められるというのは怖いことです。対面している敵(困難)が実際の何倍にも大きく感じられ、疲れ果て、「もうムリだ、もうダメだ」という思考に支配されてしまいます。
私に書けるのは私の体験に過ぎませんが、もしかしたらどなたかの目に留まり
「あ、私だけじゃないんだ」と小さなガス抜きができるかもしれない。
そう思うのです。
長々と失礼いたしました。
次回は「悲報」か「朗報」のどちらかをお伝えします。 (^_^;)
方向がメチャクチャだけど、一応前へ進んでいこうとするBBAを応援してやろうと思ってくださったら
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工房作りへの道②

暑い日が続きますが、皆様お元気にお過ごしでしょうか?
お盆の頃、「シナモンロールが食べたい」という次男の言葉を受けて
クラクラする暑さの中で作ったちぎりパン仕立てのシナモンロールです。
母とは愚かな生き物です(^▽^;)

前回の続きを書く前に…
2ヶ月半も放っておいたブログなのに、前回の記事を多くの方が見て下さったことに感謝します。
皆さんがこのブログに立ち寄ってくださることで、どれだけパワーを頂けているかわかりません。
本当にありがとうございます。
では、工房作りの続きを。(^_^;)
今回はちょっと生々しい単語が出てきますがお許しくださいね。
前回からの3年間に起きたことを羅列しますとですね…
夫が、複数の交通事故やボヤ騒ぎを皮切りに、発達障害診断、人格障害診断、アルコール依
存診断、休業、失業、入院、転院、脱走、警察保護、救急搬送、徘徊、行方不明、失禁脱糞、
障害認定、無料低額宿泊所生活、生活保護、介護認定、寝たきりという道を辿りました。
同時に息子も、発達障害診断、暴力被害、そんな中での大学受験、合格したと思ったら、
大学の入学金支払いを夫が阻止する…という困難と直面。
更に実母の緊急入院と看護、義母の急逝により12年間没交渉だった夫実家との関わり、
そして最愛のハルが他界…
私自身にも、アレルギー性ショックで緊急入院、未破裂脳動脈瘤の発見、カサンドラ症候群などが起こり、
もう神も仏もないと思いました(T_T)
とにかく私は駆けずり回りました。そうしなければ家庭崩壊したからです。
パート勤めをしながら、次々起こる出来事の処理に走り回りました。
処理方法など分からないから、数えきれない機関に相談しながら走り回りました。
行政機関、法的機関、医療機関、教育機関、福祉施設、金融機関…
同時に、前回も書きましたが少しでも収入を増やすべく、1年かけて資格取得をし、就活を開始しました。
分身の術でも使っていたのか(笑)?
しかも驚くべき執念というか(笑)、この状態でも工房計画を諦めていなかった私は
新たな工務店への相談も開始しました。
今思うと「トラブル対応とは関係ないこと」を考えたいという、一種の現実逃避行動だったのかもしれません。
それが3年前の秋。55才の時のことです。
しかしその時は工務店の方から断られてしまいました。
そしてその直後に今の職場に採用され、55才にして転職しました。
後から思えば、この時工務店から断られたのは「落ち着きなさい。今やるべき事を考えよ。」という
天からのメッセージだったのかもしれません。
なぜなら、家庭のトラブル対応と転職できりもみ状態を続けた結果、私はとうとうダウンし、
医者から「今すぐ休養せよ」と言われ、転職後わずか半年で療養休暇を取るという迷惑職員となってしまったのです。
これで工房工事などもしていたら、何もかも収拾がつかなくなっていたでしょう。
あの時は断られて幸いだったのだと思います。
さて
療養休暇は取ったものの、療養中も夫トラブルは炎上し続け、私は加療しながら対処しました。
しばらくすると、職場から「これ以上休むなら辞めてくれ」と言われてしまいました。
これも当然のことだと思います。
私は、今失業するわけにはいかないと思い、渋る医師に頼んで復帰OKの診断書を出してもらって職場復帰しました。
この時のことはこの記事に書きましたが、辞めてほしいと思われているのにしがみつかざるを得なかったあの時の気持ち、今でも覚えています。
そして職場復帰してから3ヵ月後の平成最後の日、55才の終わりに離婚。
これでホッとできるかと思いきや、離婚したことで今度は息子に全ての火の粉がふりかかってきました。
最後の力を振り絞り、家族で協力して問題をひとつひとつ片付け、
令和元年の秋ごろにようやくトンネルの出口が見えてきたかもしれないと思ったころ、
友人が3軒目の相談先となる工務店を紹介してくれました。
実は、転職先では兼業は認められないだろうと、工房作りは諦めていたのですが、
「職員の営利企業等への従事について」という書類によると、利益を得る自営業も副業許可対象となっていたので、
薄っすらと希望を持っていました。
友人は私の菓子を気に入ってくれていて、営業許可さえ取れれば堂々と注文を取って販売できるのでは?と
応援してくれていました。
しかし、残念ながら見積もり金額が折り合わずその業者との契約には至りませんでした。
この時私はすでに56才。さすがに息切れがしてきました。
ここまで二転三転どころか四転五転してきた「工房作り」だけど、
業者を探して相談して交渉して頓挫して、また相談して…という繰り返しに正直疲れてきていました。
そもそも商売として成立しない趣味的活動として考えていた開業。
今の私には「趣味」に大金をつぎ込む余裕などないし、もうおかしな夢を追うのはやめようかと思えてきました。
そこで、これを最後にしようと思い、とある工務店に連絡をして
「大幅に予算を削った最低限の工事でも対応してもらえるか」訊ねてみました。
それが無理なら、工房作りはやめようと思ったのです。
ところが、意外にもこの工務店が快く応じてくださったのです。
そこからは本当に早かった。
お金はかけず、けれども営業許可の条件はキチッと満たしたいという私の希望に快く対応してくれ、
2ヶ月程度で工房は完成してしまったのです!
6畳しかない本当に一人用の小さな工房ですが、嬉しかったです。
あとは、自分で設備機器を買って設置し、管轄保健所に申請するだけ!…と思ったのですが
何と何と、このタイミングでビックリなんてものではない衝撃的出来事が起こりました。
詳しくは書けませんが、ひとことで言うと、これまでの家族トラブル地獄に対して必死で闘ってきたことが、
全てムダになってしまうような事でした。
ブログにもその時のショックについては書きましたが…これが未だに立ち直りきれていない強烈なダメージで…
しばらくの間は放心して工房どころではなくなってしまいました。
更にその出来事と1週間も違わない時に、15年家族だったハビまでが逝ってしまいました。
参りました。
もう、どこをどう絞っても、な~~んにもやる気が出てこない。
全てがバカバカしくて、毎日ふてくされて、口から出るのは後ろ向き発言ばかり。
自分で自分が嫌になりましたが、どうにも気持ちを立て直すことができませんでした。
ちょうどその頃から世の中は新型コロナウィルス問題が深刻化し、経験したことがない事態になっていきました。
外出自粛要請や緊急事態宣言が出て、誰もがこれまでの日常とは全く違う暮らし方をせざるを得なくなりましたが、
我が家も例外ではありませんでした。
感染防止策やそれぞれの仕事、学校のことなどで慌ただしく、
ますます“自分の工房”の事を考えている場合ではなくなり、気づけば5月になっていました。
工事が終わってからすでに3ヶ月。
工房の部屋はドアを閉めたままになっていてほとんど入室すらせず放ったらかしになってしまっていました。
しかしある日、使われないままの工房に入ってぼんやり座っていたら
しばらくして「何してるんだ?わたし…」と思えてきました。
ここまで来るのに、一体どれだけの時間と体力とお金を使ってきたのか。
やっと自分自身のことを考えられる余裕ができてきたのに、やっと工房ができたのに、
今ここで燃え尽きちゃったらもったいない!と思えてきました。
やっとそこまで気力が戻ったのかもしれません。
そしてやっと、保健所に営業許可の申請に行き
令和2年の5月半ば、とうとう私の店の営業許可がおりたのです。+゚。*(*´∀`*)*。゚+
工房だけで店舗はないし、営業日など何もかもこれから考えなくてはなりませんが、
とにかくこれで、これからは堂々と菓子の注文を受けられる。
何よりも、度重なる悪事に翻弄される日々がやっと終わって、
「自分の為に生きる」ということに切り替えていけるような希望を感じました。
「売り物に値するような菓子を作れるのか?」とか「果たして関心を持ってくださる方が存在するのか?」とか、
不安を言い出したらキリがないので、公にしてしまうことで「スタート」する弾みをつけたくて、
去年の秋から始めたInstagramにも営業許可がおりたことを載せました。
すると、思いがけずたくさんの励ましのコメントを頂けて、少しずつやる気が満ちてきました。
そして、職場に兼業の許可を得るために、所定の用紙に必要事項を書き込んで
直属の上司に手渡して兼業の申請をしました。
上司は「頑張って」と声をかけてくれました。
ところが!
ところがです!
またも壁が立ちはだかってしまいました。
この壁はどうすることもできないかもしれませんが(^_^;)
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工房作りへの道①

ブルーベリーのパウンドケーキ。 レシピはこちらです→★
生地にサワークリームが入っていて、しっとりしながらも爽やかな夏向きのケーキです。

え~~…大変大変大変ご無沙汰しております!
天候、新型コロナウィルス、経済…全方位“経験したことのないレベル”と言われる試練に満ちた世の中ですが、
皆様はお変わりないでしょうか。
私が住んでいるのは、7月までの累計感染者数全国ワースト3の神奈川ですが
今のところ自分も家族も体調に異変はなく、仕事も自粛の影響皆無の職種ため、
全くいつも通り(むしろ多忙気味)に出勤しています。
そんな中…実はこのたび、菓子製造業の営業許可を取得ました\(^o^)/
自宅の6畳間に最低限の改装を施した、簡易的極狭厨房ではありますが、
可愛い可愛い私の城

この城ができるまでは、実に長い道のりがありました。
私が漠然と「菓子の仕事ができたら…」と考え始めたのは14~15年も前のこと。
その時すでに40を超えていました。
当時は専業主婦でしたが、そろそろ子どもの手が離れるので何か仕事をしようと思っていました。
体さえ元気なら、60になっても70になっても働いていたい(働かなきゃならない)。
長く働く為には、若い方がありがたがられる仕事や、私ではなくても誰でも良い仕事ではなく、
「やりたいこと」を仕事にできたらいいのだけど…と考えた時、頭に浮かんだのは「菓子の仕事」でした。
具体的にどんな「菓子の仕事」をしたいのかは定まっていなかったけど、
何をするにしてもこれが必要だろうと、まずは食品衛生責任者資格を取りました。14年前、43歳の時です。
そして44歳の1年間製菓専門学校(通信)に通い、45歳で製菓衛生士の免許とフードコーディネーター資格を取りました。
その頃、いくつかの製菓店の求人にも応募してみましたが、年齢と未経験を理由にどこも不採用でした。
考えたら当然のこと。製菓店の厨房業務は大変ハードな上に効率を求められる現場。
「お菓子作りが好きなんです♪」なだけの中高年のオバサンに務まるような甘い仕事ではないのです。
そして、若い人材を求める業界でもあることも専門学校で教えられていたので、不採用には納得できました。
でも…ということは…「菓子教室」にしても「菓子店」にしても、自分の工房が必要なのかも?と思い至り、
製菓衛生士資格を取った年に、工房作り資金を貯める目的で、製菓とは無関係業種のパート勤めを始めました。
しかし、時給で働くパートでそんなに簡単に貯金ができるわけもなく、あっと言う間に3年が経過。
そしてパート先が閉店となったのが9年前の48歳の時でした。
約半年の仕事探しの末、また製菓とは無関係の業種の非常勤職員になりましたが、
菓子業界とはつながっていたくて副業で調理師専門学校の講師をしたり、
極々小規模の菓子教室を開いたりしました。それが8年前~6年前、49~51歳頃のことです。
そんな事をしている間にまたまた時は過ぎ、気づけば53才に。
このままではいつになっても工房作りなどできない

国の創業補助金に挑戦(めちゃめちゃ大変だった)しましたが、無情にも不採択
行政の創業スクールなるものに参加したり商工会に相談したりもしましたが、
私の計画を伝えただけで中小企業診断士の方は「趣味なら応援しますけど…」と笑い出しました。
自覚はしていましたが、到底商売としては成立しない計画だったわけです。
ではやはり、どこかに雇ってもらうことを考えるべきなのか?と思い、
こんなこともしてみたけど、先方の開業計画が未定とわかり応募を取り下げ。
あ~~何やってんだろうワタシ!モタモタしてグズグズして中途半端で、何ひとつ前進していない…と
モヤモヤするうちに「商工会には笑われたけど、趣味のレベルでとにかく始めてみよう。」と思うようになりました。
商売としては多分成立しない。立派な工房を作る資金もない。
だけど、とにかく動き始めてみたら何かが変わってくるかもしれない。
失敗なら失敗でいいや!って。
そしていよいよ、地元の工務店に工房作りについて初めて具体的に相談をし、
見積もりをしてもらうところまで漕ぎつけました。4年前、53歳の時です。
しかしなんとここで家庭の状況が一変します。
夫がトラブルを多発させ

トラブルの後始末と尻ぬぐいの日々の中、私は近い将来自立を余儀なくされることを予感しました。
今の非常勤仕事では、未成年の子どもと90の母を支えるのは到底不可能。
菓子の仕事で食べていくなんてもっと不可能。
開業はひとつの目標として持ち続けるけれども、今はとにかく少しでも収入を増やさなくてはならない。
この年で今より条件の良い転職をする為には資格が必要。…と考え、
製菓と無関係の資格取得を始めました。 その時、御年54才です。
そしてここから、地獄のような3年が始まるのですが…(^^;)
長くなり過ぎたので、次回に続きます。
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